14日はこじゅたんのご命日でしたね。
というわけで遅ればせながら、SSをこちらへアップ。↓に畳んであります。
※やっぱりこじゅたんが死んだ後の話になっちゃいました。政宗+蔦という感じかな。
天下分け目の戦を制した家康は江戸に幕府を開いた。しかし徳川の世になってもう十数年も過ぎ、誰もが天下泰平を実感し始めたという頃、大坂でまた戦が起こった。各国に溢れる不満だらけの労人たちを呼び入れ、故太閤の忘れ形見である秀頼を旗頭にした戦だった。それは家康の六男で娘婿である忠輝の、兄であり将軍である秀忠へ対する度重なる無礼な振る舞いが舅である政宗年を悩ませていた中での出来事だった。
年を跨いだ二度の戦に、もちろん政宗も参戦した。しかしその隣に常に影となり付き従っていた小十郎──片倉備中守景綱の姿はなかった。
「もう一年か・・早いものだ」
ゆらゆらと揺れる馬上で政宗はひとりごちた。
ついこの間まで暑さに呻いていたのが嘘のように空気はきりりと冷え、北国の早い冬を予感させていた。
朝早く仙臺を出て江戸への途上、今日は白石での泊を予定していた。
これより丁度一年ほど前、片倉備中守景綱が死んだ。
既に病に伏していた景綱は、大坂の戦には自身の代わりにと息子の小十郎重綱を遣わした。小十郎は見事な働きを見せ、政宗を喜ばせ、景綱を満足させた。しかしそれから程なくして景綱は世を去った。
景綱死去の報を受けた政宗はすぐにでも飛んで行きたかったが、大国の領主としてそれは許されなかった。出来得る限りの手配と香典、そして文だけが政宗に許されたすべてだった。
それからも景綱へ線香の一本でも上げたいと何度も思いはしたが、家康の死、そして景綱が最後まで心配していた忠輝は改易、そこにニ年続いた江戸藩邸の焼失と、立て続けに起こった大事に政宗は身動きが取れなかった。
そうした騒ぎが落ち着つけばすでに秋も深まる頃、景綱の一周忌が近づいていた。そうして江戸へ上がる途中、やっとのことで白石への寄り道が許された。
夕暮れにはまだ早い時分、政宗は白石城へと入った。
政宗が白石城が景綱の手によって改築された際に作られた御成門から入ると景綱の妻・蔦が控えていた。
「殿、御無沙汰致しております」
「蔦・・久しいな。息災でおったか?」
「はい、お陰様を持ちまして・・」
そうは云ったが、久々に目にした蔦は髪に白いものも増え、体つきもひと回り小さくなったように政宗には感じられた。
「さっそくだが、景綱に線香の一本も上げたい。かまわぬか?」
「それはもう・・っ!小十郎、案内を・・」
「はい。殿、どうぞこちらにございます」
仙臺より供をしてきた小十郎が先に立ち、政宗は仏間へと通されると目を見張った。
案内された仏間は八畳ほどの大きさで、家臣とはいえ、大名にも匹敵する石高と城を持った男の仏壇とは思えぬほど、慎ましく質素なものだった。しかし、それがまた景綱らしく政宗はすぐに目を細めた。
「殿におかれましては先年の夫・景綱が葬儀の際は過分な御香典と、またお心のこもった書状を頂きまして誠に恐悦至極にございました・・」
「ああ、堅苦しい挨拶はよい。それにわしのほうこそ、こうして線香を上げに来るのに一年も掛かってしもうた。済まぬ」
「勿体無い仰せでございます。しかし無理もございませぬ。二度に渡る大坂の戦の後始末に、大御所さまや忠輝さまのこと、それに江戸屋敷のことも・・・殿や愛姫さまのご心痛は如何ばかりかと思うておりました。夫も生きておりましたら、病など忘れて飛び起きたに相違ございません」
「そうだな・・・」
と、蔦の気遣いに相槌を打とうとして政宗は思った。
あの厳しかった傅役はそれだけでは済まさないだろう。
利かぬ体に鞭打ち、抜かりなくすべてを収めて、そして・・・
「・・きっと景綱が生きておったら、わしを叱り飛ばしにやって来ただろうな」
にやりと笑って云うと、蔦は目を丸くした。
「まあ、そんな恐れ多いこと!」
「いや、あれはそういう男よ」
政宗のしたり顔に蔦はしばし逡巡すると、くすりと笑った。
「・・左様でございますね。そう申されてみますと、そうやもしれませぬ。何せ、大坂にて手柄を立てた息子を城より締め出したほどにござりますから」
「おう、あのときはさすがのわしも驚いた。成実など鳩が豆鉄砲を喰ろうたような顔であった!」
「まあ、殿!そのような言が成実さまのお耳に入りましたら大変でございますよ」
そんな戯言を云い合って二人して笑った。
ふと、政宗は(ああ、景綱はまだこうして生きているのだな)と思い、胸が熱くなった。